イラストは、イギリスの18世紀の産業革命を担ったマシュー・ボールトンの作品を模写というか、描いてみたものである。

マシュー・ボールトンという人は1775年頃、アメリカ独立宣言の近くの時代にジェームズ・ワットと蒸気機関を開発する会社を作った人として有名な人です。

しかし、マシュー・ボールトン自身はもともとは鉄製品に細工を施す職人で、その工場の経営者でもあったようです。そして、そのクオリティはイギリス国王やその妃や、更にはロシアの女帝などにも気に入られているほどです。

ただ、彼が今までの伝統的な職人と違ったのは、作業を合理的に行い、クオリティの高いものを作ったという所です。しかし、それだけだと当たり前すぎるので、更に付け加えると、その鉄製品を細工するために化学的な知識に興味を持ち探求していったという所も重要なところです。

化学に興味を持っていたから、自分の工場の隣の社宅において、有名な科学者たちが集まってきました。ダーウィンの祖父や、アメリカ建国の父でしかも凧揚げによる雷の実験で有名なベンジャミン・フランクリンや酸素の発見で有名なプリーストリー、そして蒸気機関のジェームズ・ワットです。

またマシュー・ボールトンと同じように職人でしかも合理化を進め、更に化学的な知識に興味を持った人もその集まりにいました。

今でも高級な食器メーカーとして有名であるウェッジウッドの創業者ジョサイア・ウェッジウッドです。

ジョサイア・ウェッジウッドも陶磁器を化学的反応を勉強した結果今までにない陶磁器の製法を編み出して成功した人です。クリーム色の陶器は「クィーンズ・ウェア」と公式に名乗っていいと女王に認められたほどの代物です。

だから一つ思うのは、学問や文化的な活動というものは地位や職業を越えて繋がることができて、更に新たな関係を生み出すのではないのかな、と思ったのです。

今回はそんな職人でありながら作業の合理化と科学などの知識を広げて、産業革命を勧めたバーミンガムのマシュー・ボールトンとジョサイア・ウェッジウッドを紹介していきたいと思います。

【バーミンガムにおける産業革命part.1】

18世紀後半、イギリスの産業革命を支えた都市として「バーミンガム」が一つにある。

■①鉄工業としての側面~マシュー・ボールトン■

ⅰ.鉄の都に生まれる

バーミンガムは鉄工業が盛んな場所で、とくに近くで埋蔵量が膨大な炭鉱が発見され、木炭からコークスに燃料を変えることで安価で製造できる事が可能になっていた。

1728年、もともとバックルを作る小さな工場だったが時代の波に乗り工場の規模を急速に成長させていた父のもとに、マシュー・ボールトンが生まれる。

マシュー・ボールトンは、成長し、父のもとや親類のもとで「鉄の製造」及び鉄に細工を加える「トイ製品製造」を学んでいた。

ⅱ.エラズムス・ダーウィンとの出会いと研究サークル

そこで、1757年、そんな中、チャールズ・ダーウィンの祖父エラズムス・ダーウィンと知り合った。エラズムスは国王(ジョージ二世)の侍医もするほどの医者で、マシュー・ボールトンの母親が患者であったという。またマシュー・ボールトンの友人を通して知り合ったとも言われる。

鉄工業というのは色々な化学的な反応をみたり、生産にたいする物理学的な知識が必要であったり、マシュー・ボールトンは学問に対して広い興味があった。そして、エラズムス・ダーウィンも医者であるため様々な化学的な知識などが必要なこともあり、かなり学問に対して広い興味があった。

こうして、二人はたびたび会っては電気、鉱物学、地質学といった学問において共同研究をするようになった。

そして1858年、アメリカ建国の父ベンジャミン・フランクリンもその研究会に参加する。アメリカにおいて印刷業で成功してから学術方向などで社会活動をしていて、フランチ・インディアン戦争や、植民地の待遇改善を要求するためにイギリスに派遣されていた。有名な凧を使った雷の実験などにより科学的方面でも評価されていて王立協会などを訪れ、更にこのマシュー・ボールトンとエラズムスの共同研究から始まったサークルに訪れたのだ。

その後、1759年マシュー・ボールトンの父が亡くなり、マシュー・ボールトンは工場の経営者となり、トイ製品(鉄の細工)に本腰を入れる。そして翌年に王位を継ぐこととなるジョージ3世の剣の特注を受けるまでになる(因みに時代背景として、ジョージ3世は即位後7年戦争で戦争で功績をあげていた大ピットを罷免している)。

その後、トイ製品の加工に特化したソーホー工場の建設に取り掛かり、1765年に落成する。上流向けには鉄製の、一般向けにはシュフィールド・プレート加工の食器類を作る製造計画を持っていた。また、ソーホー工場の隣にソーホー・ハウスを作り、自宅であると共に親類などの従業員が住める社宅のようなものを作る。このソーホー・ハウスでもエラズムスらとの研究サークルを開くようになり、当時陶磁器の新しい技法で有名になりつつあったウェッジウッドなども誘い、後には「ルナ協会(ソサエアティ)」に発展する。因みに、ウェッジウッドはソーホー工場に影響を受け、ステフォードシャーのエトルリア陶器工場の新設を構想(また翌年ジョージ3世の王妃シャーロットの御用達となり特徴的な肌色を使った陶器を「クィーンズ・ウェア」と公式に認められる)。そう考えるとソーホー工場やエルトリア陶器工場は付加価値を付ける細工などをする機能的な工場だったのだろう。

その後、マシュー・ボールトンは鉄の成分分析検査所をバーミンガムに誘致したり、さらに上流階級に装飾を施した大壺が流行したのにのっかり1770年にはジョージ3世の王妃シャーロットの注文を受ける(後にこのブームが下火になったころロシア女帝エカチェリーナ2世はフランスのオルモル(このブームはフランスのオルモルから始まっている)より優れた良品で値ごろして大量に交流している)。

<ⅲ.ジェームズ・ワットとの共同事業>

1775年、マシュー・ボールトンとエラズムス・ダーウィンの共同研究から研究サークルの幹事のような事をしていたウィリアム・スモールが死去する。そのため、この研究サークルはソーホー・ハウスをメインとして満月(ルナ)の夜に開催されるものになり「ルナ・ソサエティ」とも呼ばれるようにメンバーの中で呼ばれるようになっていた。

一方、1775年はマシュー・ボールトンがソーホー工場が落成した辺りからワット式蒸気機関(今まで蒸気による圧力で膨張し、冷水で収縮を行っていたシリンダーを、蒸気がにげて水にもどる復水器を搭載することで効率的にシリンダーを動かす)を開発して会社を興そうとしていたワットを、ようやく説得して自身の工場に呼び寄せた年でもあった。

ワットはもともとスコットランド出身だが、18歳の頃ロンドンに1年科学機器を学びにいき、スコットランドで起業しようとするもギルドの反対に会い、1756年グラスゴー大学の論理哲学の教授になっていたアダム・スミスなどの助けを借り(この3年後に『道徳感情論』を出版するなど道徳哲学の活動がメインだったがこの頃からギルドの閉鎖的で、利益を独占する制度に批判的であったため協力)、大学内で科学機器の製造と修理の工場を開いた。その後、蒸気機関に関する新しい発明をしてグラスゴー大学で工房の設立以来友人となっていたジョセフ・ブラック(グラスゴー大学医学教授)や鉄工業を営んでいたローバックなどの支援を受けて起業していた。しかし、上手く行かず運河建設の測量技師をしたりしていたのだが、ローバックの会社が破産したため、マシュー・ボールトンが引き継いだのだ。

マシュー・ボールトンのソーホー工場での技術ならワットの発明を現実的な装置として実現でき、最初は鉱山で地下のわき水をくみあげるのに次々と使われていたが、1781年にはピストンの往復運動を回転運動にかえることに成功し用途が広がるようになる。1794年にはボールトン・アンド・ワット会社が設立され、1774年の「機械輸出禁止令」によりイギリス内の機械が保護されたのも助かり(一部解除は1825年でそれにより他国でようやく産業革命が始まる)、産業革命は進んでいく。

ただ、マシュー・ボールトンがワットを招いたのは1775年で翌年にはアメリカ独立戦争が始まっている。そこには「ルナ・ソサエティ」に参加していたベンジャミン・フランクリンや、ウェッジウッドの紹介で「ルナ・ソサエティ」に参加していたプリーストリーなどもアメリカに行って革命の一員として迎えられるなど、マシュー・ボールトンのソーホー・ハウスで行われた「ルナ・ソサエティ」はアカデミックな繋がりによって産業革命だけでなく幅広い展開を作り出している(ただし、「ルナ・ソサエティ」自身はマシュー・ボールトンがワットとの共同事業で忙しくなってからフェードアウトしていく)。

【バーミンガムにおける産業革命part.2ウェッジウッド】

現在、高級陶磁器メーカーであるウェッジウッドの創業者ジョサイア・ウェッジウッドのは、ジェームズ・ワットとマシュー・ボールトンが起こす蒸気機関による産業革命をダーウィンの祖父エラズマスが作った「ルナ協会」を通して感じた。

■①陶磁器職人と非国教会徒■

1730年、ジョサイア・ウェッジウッドは、陶磁器を作る職人であったトーマス・ウェッジウッドのもとに生まれた。家庭的には非国教会であるユニテリアンであったようである。

この10年後辺りに、アダム・スミスが奨学生としてオックスフォード大学に行ったとき、権威や格式に縛られ、学問としては沈滞していたという体験を受けているように、国教会であることはある意味では、これから始まる産業革命を支える思想を取り入れることに難があったようである。そうすると、ジョサイア・ウェッジウッドは非国教会であったため、生きずらさもあっただろうが、新しい考える土壌にはいたのではないだろうか。

その後、ジョサイア・ウェッジウッドは父親の元で働いたり親類の元で働きながら陶磁器の製法を学んでいく。その後、他の陶磁器職人であるトーマス・ウェルドンなどと1754年あたりビジネスを始めていく。

■②プリーストリー■

陶磁器を作り、新しい手法を開発していくという事は、化学反応などに関する知識を身に着け、新しい素材を作っていくという作業であったようである。

そのため、ウェッジウッドは新しい化学を学び火による物質の反応を貪欲に勉強してた。

1762年、そのときウェッジウッドの工場に、プリーストリーが現れる。

ただ、プリーストリーは今でこそ酸素の発見者として有名になっているが、当時は前年からウォリントン・アカデミーで教師をしていて、この時期は歴史家として名を馳せていた時期であった。プリーストリーの教育は独創的で、科学が発展していくほど世の中は良くなっていく、そのため歴史を学ぶことは良くなっている軌跡を学ぶことで、誰もが必要なことであるという考えであった。

ただ、教師としては数学や自然哲学も重んじ、特に実験などを重んじていて、自然哲学の造形も当時から深かったのだと思われる。この時期にはウォリントン・アカデミーの中で電気について学ぶ機会があり、電気学の歴史なども執筆し始めている。そのため、おそらくウェッジウッドの陶磁器工場に自然科学を教える教師として、陶磁器の製法にアドバイスをしていたのだと思う。

そして、まさにウェッジウッドは、このプリーストリーの考えに影響を受けて、化学を学んでいったようである。

そのように色々試行錯誤している内に、1763年には新しい製法を開発し、ウェッジウッドの名は広まっていく。そうして、ダーウィンの祖父エラズマスや、後にワットと共同経営をすることになるマシュー・ボールトンが催している研究サークル(後に「ルナ協会」とも言われる)に呼ばれることになる。

その際に、ウェッジウッドを通してプリーストリーも研究サークルに紹介され、アメリカ建国の父でありまた凧による雷の実験で有名なベンジャミン・フランクリンとプリーストリーは交友を持つ。このときプリーストリーは電気学の歴史を執筆していたから、話は盛り上がったのだろう。またこの功績から、おそらくベンジャミン・フランクリンを通してだと思うが王立協会のフェローにプリーストリーは選ばれている。更にダーウィンの祖父エラズマスとプリーストリーも1767年に電気の実験を共同でしている。

この後、1767年に少し離れたリーズにプリーストリーは引っ越すことになるのだが、研究サークルとの交友は続いていたようである。このリーズにおいてプリーストリーは炭酸水を作っている。この時はプリーストリーは、ビール工場(醸造所)のアドバイザーをしていたようで、この時ビール醸造の泡の上にたまる空気に水を通すと炭酸水ができる事を発見したようである。プリーストリー自身は販売はしなかったようであるが、1772年ジェームズ・クックの二回目の航海に誘われた際、参加は断るが壊血病に炭酸水が治療に役立つことを教えている。またクックは1回目の航海の際、壊血病を出さない偉業を行い、また後に壊血病予防で表彰されている。

余談であるが、ジャンジャック・ルソーがヒュームの紹介でイギリスに来て、エラズマスらの研究サークルを訪れているのが1766年だからこの時である。そして、植物に関する交友をする。つまり、この研究サークルは電気などの実験もしているが、同時に植物に関する研究なども(厳密にはほかの植物学会とであるが)しているようである。

■③エリトア陶器工場の問題■

1766年、ウェッジウッドはついに1760年に王位に就いたジョージ3世の王妃シャーロットの御用達となり、クリーム色の陶磁器シリーズを「クィーンズ・ウェア」と公式に名乗る事を許された。また1770年にはイギリス駐在のロシア大使が、ウェッジウッドに対してロシアの女帝エカチェリーナ2世のためにディナーセットを注文する。など、ウェッジウッドは輸入の多くを王族などの高級路線で収入を稼ぐようになる。

また、前年に参加しだした研究サークルのマシュー・ボールトンは鉄に細工をする革新的な工場・ソーホー工場を作っていて、それをウェッジウッドは視察し、ウェッジウッドも陶磁器の細工に特化した「エトルリア工場」を作ることを考え、1771年に実現している。

マシュー・ボールトンのソーホー工場は、高級路線の製品作りと一般向けの製品作りを機能的にした工場であり、特に高級路線への特化が特徴であったようである。そのため、ウェッジウッドの「エトルリア工場」もそのような特化から王族など高級路線にニーズを拡大したのではないだろうか。

因みに、マシュー・ボールトンも1759年にジョージ3世の剣の特注、1770年にはシャーロットの大壺の特注を取っている。更に少したってエカチェリーナ2世もマシュー・ボールトンの大壺を買っているところをみると、イギリス製品の優秀さが認めらて来たか、あるいは貿易の比較優位の原則からこのような品を海外に売り出すようになった時期なのではないだろうか。

ただ、ウェッジウッドのエルトリア陶器工場が作り出す商品は、少数の富裕層向けの高級品においては支持を得たが、逆にそればかりに頼った経営になっていて、支出が収入を上回っている赤字経営に長らくなっていたようだ。

ウェッジ・ウッドは悩んみ色々な改善策を考えたようである。このときいち早く蒸気動力を導入したという資料もあり、これも1765年頃からマシュー・ボールトンがワットを自身の工場に招こうとしていた事実と無関係ではないのだろうか。

蒸気機関ではないが、「謝りようのない人間機械」という時間交替制の分業システムを築くなど、作業工程の合理化の努力が功をなしているようである。

他には、簿記での管理を徹底したようである。最初は、製品の原料などの内訳をしっかり管理すればするほど赤字であることが実感したようだが、徐々に簿記の技術を習得し価格設定など経済に合わせた価格設定などを行えるようになり、物価が下落基調になり多くの消費財が影響を被った中、ウェッジウッドは国際市場でのシェアを伸ばしているようである。

因みにウェッジウッドの友人に道徳哲学者リチャード・プライスという人がいてこの人はアメリカ独立戦争による国債の乱発によりイギリス国内の経済が荒れて、暴動が起きる中、周到に計算して、アメリカ独立戦争戦争後小ピットが首相になった際にこの債権を合理的に解決した人がいる。そのため、ウェッジウッドの簿記の能力も独自の者でなく、学問の裏付けのあったものであろう。この小ピット時代に国家の歳入・歳出に複式簿記を導入し、さらに公表するというイギリス史上初の簿記革命が起っているが、その簿記革命の一端の流れでもあったのかもしれない。

■④ウェッジウッドの政治活動■

ただ、ウェッジウッド自身はこのように簿記革命の一端を担っていたり、フランス革命辺りにはエラズマス・ダーウィンらと奴隷廃止運動に力を入れているが、基本的には自身の会社が富裕層をターゲットをしていたため、深入りはしなかったようである。

そのため、奴隷廃止運動の活動員のメダルなどを作る一方、ルイ16世やその財務大臣ネッケルの記念品なども作っている。

更に、かつての化学とその哲学の師であったプリーストリー(非国教徒を擁護し、その権利の回復の活動もしてたのウェッジウッドに感銘を与えた)がフランス革命の余波を受けて1791年プリーストリーの自宅が襲われる事件が起きる。プリーストリーは実は、フランス革命を支持する過激な小冊子を発行していたらしく、それが反感を買ったようである。

それを知ったウェッジウッドは、他国が革命で混乱している中、イギリスは安定して繁栄しているのに政府を転覆しようとするなんてと反論して、その後、エラズマスと共に子供などには非国教会徒の信仰を強制するのは辞めているようである。また、このウェッジウッドの感覚は、アメリカ独立戦争に敗北する事になり逆に領地と引き換えに得た資金を基に一丸となったイギリスの当時の状況を反映しているようである。

一方、プリーストリーはアメリカのフィラレーテに亡命し、かつて「ルナ協会」で電気の実験などで交友したベンジャミン・フランクリンに温かく迎えられているようである。

※簿記の話は『帳簿の世界史』ジェイコブ・ソールを参照、プリーストリーやエラズマスとの関係は部分的に『ダーウィンが信じた道』エイドリアン・デズモンドらを参照。炭酸水の話は『おはなし化学史』松本泉を参照。